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国際貢献

スマトラ沖大地震〜インド洋津波災害(タイ南東部)派遣の絵日記A〜

2005年1月1日  未明に、申し訳なさそうに何発かの花火がプーケットの町でも上がっていました。寂しい正月になってしまいました。プーケットにとっても、私にとっても。

 1月1日の朝はゆっくり休みました。本隊もピピ島に合流することになり、午前6時半、疲れの少ない本隊が先にピピに出発しました。昨日へとへとになったピピ先発隊は遅出ということです。私たちは9時にホテルのロビーに集合し、10時30分に出発しました。今日は本隊が一緒なので余裕です。大きなテントも十分な水も、スポーツ飲料も、すべて十分でした。そして、作業は交替制です。医療班も交代で現場に出ました。ただこの日、私にとって辛かったのは遺体確認に立ち会わないといけなかったことです。ウジの湧いた水死体を間近で見た経験のない私にとって、衝撃でした。これだけは一生忘れることが出来ないでしょう。ただ、あまり詳しい説明はやめようと思います。私も出来ることなら思い出したくないからです。

 このころ、救助チームにはそろそろあきらめが広がってきました。人命救助ではなく、遺体の捜索に終始せざるをえない状況が続いたからです。しかも、発災から1週間が経過しようとしていました。

1月2日、3日  ホテルに待機でした。資機材の整備とミーティングに時間を費やしました。私たちの持ってきている資機材は人命救助用であり、遺体の発見には無力です。しかし、日本人の同胞の被害者すら多くが行方不明のままでした。 


1月4日  活動再開です。私は、団長と共にわれわれ救助チームより一日遅れてタイにやってきた緊急援助隊医療チームの活躍や被災地の復興状況の視察に出かけました。医療チームは避難所に建てたテントと地元の小学校の2カ所に診療所を開いて、精力的に活動中でした。羨ましかったのは、医療班の宿泊していたホテルがきれいなリゾートホテルだったことです。しかし、救助チームが泥だらけになって帰って行くには立派すぎてかえって居心地が悪くなったかもしれません。それから、驚いたのはタイの復興の速さです。初日に行った漁村では瓦礫がかなり撤去されていました。

1月5日以降  カオラック周辺の捜索活動でした。そして、この日が活動の最終日となりました。1月6日はバンコクへ向かい、7日の夜にバンコクを出て8日朝に成田到着です。最後の方は、尻つぼみの活動でしたが、救助チームというものは元来そういうものなのでしょう。発災から72時間のゴールデンタイムをほとんど寝ないで活動し、あとは惰性で続ける感じです。今回は特に日本人の被災者があまりに多く、後半は帰るに帰れない状況で活動を続けたのでした。


最後に  今回、緊急援助隊に参加させていただく機会を得られたことを本当に光栄に思っています。この派遣で学んだことは私にとって、計り知れないほど大きなものです。そして、御協力いただいた救急科の皆さんには心から感謝いたします。どうも有り難うございました。


4月9日 今回、津波災害のためにタイに派遣された後、嬉しいことがいろいろありました。新聞に載せて頂いたり、外務大臣や消防庁長官から感謝状をいただいたり、小泉総理主催の桜を見る会(於:新宿御苑)に招待されたり・・・。ちょっと、いいことがありすぎです。自分としてはなんの見返りも期待せず、ただ、「行って何か役に立ちたい」と思っていただけなのですが、こんなにご褒美をいただくと、「また行きたい!」って思ってしまいます。災害を期待してはいないですが、次に行くときはもっと活躍できるよう日々怠らないようにしなければなりません。最後の写真は4月9日に開かれた小泉総理主催の桜を見る会での私です。この日は、日頃の忙しさを忘れ、妻と二人で新宿御苑まで行きました。ちょっといい気分でしたよ。皆さんも、ぜひ、緊急援助隊に登録し、いざというときに参加できるようにしておきませんか。




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