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国際貢献

スマトラ沖大地震〜インド洋津波災害(タイ南東部)派遣の絵日記@〜

国際緊急援助隊(JDR)参加体験記
−インド洋津波災害(タイ南東部)派遣の絵日記−
救急医学講座 助教 畑 倫明

 皆さん、ご報告が遅くなりました。ホームページの管理者から、「ええ加減に報告を書いてください」と言われて、重い腰をあげました。2回目のスマトラ沖巨大地震のために「ニアス島へ行け」と言われれば、今すぐにでも!という感じですが、文章を書けといわれると・・・。しかし、あまり遅くなるとニアス島に行っている緊急援助隊も帰ってきますから、急がなくてはなりません。さて、2004年12月26日に発生したスマトラ沖巨大地震による津波災害に対して、12月29日から1月8日まで11日にわたり、日本の国際緊急援助隊チームの一員としてタイのプーケットに派遣されてきたことに関する報告をさせていただきます。私の体験を皆様に追体験していただくため、絵日記風に書いてみましょう。

2004年12月26日  日本時間午前10時、スマトラ沖巨大地震発生。私がこのニュースを知ったのはその日の夕方、日曜の夜なので家族と食事に出かけている時でした。串カツ屋のマスターが、「えらいこと起こってますなぁ。」と教えてくれたのです。その時、「もしかしたら、これに派遣されるかも。」なんて冗談を言っていたのですが、まさか本当に行けるとは思ってもみませんでした。


12月27日  私は神戸に行っていました。阪神淡路大震災の10周年にあわせて1月18日から神戸で行われる「国連防災世界会議」にJICAが催す国際緊急援助隊デモンストレーションに参加するための打ち合わせのためです。この日、すでに津波災害に対するスリランカへの緊急援助隊医療班JMTDRが日本を出発していました。私は今回一緒に行かせていただくことになる国立災害医療センターの井上先生やJICAの職員の方たちと話しながら、救助チームは派遣されないだろうと予想していました。なぜなら、「JICA職員が足りない状態だったから」と「既に2日が経過していたから」です。


12月28日  派遣決定の日です。タイからの派遣要請に日本が応えて医療班と救助班を出すことになりました。もう一つ、モルディブにも医療班が派遣されることになりました。JICAは大忙しです。後で聞いた話ですが、今回のタイの派遣では人手が足りなくて、あちこちから緊急援助隊と以前関わっていたJICA職員らを駆り出して即席でチーム編成したそうです。そして、私のところにタイの救助チームへの派遣要請が来たのは、もう夜も遅い9時頃でした。このとき、私にとってラッキーだったのが、当直を除く救急科のほぼ全員が「松山先生送別会」に参加していたことです。酔った勢いもあって全員に「畑、頑張れ! 後はまかしとけ!」と言ってもらうことができました。緊急援助隊に参加するために最も重要な条件は普段一緒に仕事している仲間の協力体制なのです。私のわがままを笑って許してくれた皆さん、どうも有り難う! 特に当直を交代してくれた則本先生と伊藤先生には感謝しています。

 さて、知らせを聞いた私は大急ぎで大学の研究室へ帰りました。自分のパソコンを開いて、成田への行き方を検索するためです。翌朝、8時50分成田集合はかなり厳しいものがありました。まして年末です。時間的に、新幹線は不可能とわかりました。夜中に車で名古屋まで行ってから新幹線に乗るという方法も考えましたが、かなりきついです。頼みは飛行機ですが・・・ありました!

 関空6:30発羽田行きです。羽田からタクシーで行けば何とかなるとわかりました。残りは3席のみ、ぎりぎりの滑り込みセーフでした。やっとの事で飛行機の予約を取り、家に帰ったのは夜中の11時半、これから出発の支度です。パスポートは? お金は? 下着は? こんな時に限って妻は鹿児島に・・・。2時頃に風呂に入って、2時半くらいには布団にもぐりこみましたが、興奮して眠れません。自分でもアドレナリンが出まくっているがよく分かりました。結局、眠れたのは午前3時半を過ぎてからでした。



12月29日  目覚ましが鳴ったのは午前4時半です。1時間しか寝ていないのですが、目は爛々としていました。異様な感じです。5時には車で家を出て、関空へ向かいました。途中も全く眠気を感じません。6時過ぎにちゃんと関空へ着くことが出来ました。車は乗り捨てです。正月休みの間に、妻に取りに来てもらうことにしました。飛行機に乗ってから、成田に着くまでもいろいろ大変だったのですが、詳しく書くと長くなるので割愛しましょう。

 私が成田の集合場所(VIPルームです!)に着いたのは、集合時間から遅れること20分、9時10分過ぎでした。もう結団式は終了し、あたりは騒然としていました。政府関係者、マスコミ、JICA職員、そして救助隊員と私たち救助チーム医療班などなど、様々です。私はわけもわからず、その場で立ちすくんでいるような感じでした。何をしたらいいかまず分からないし、医療資機材はすでに積み込まれているようでしたし・・・。井上先生と看護師さん2人以外はほとんど知らない人ばかりだし・・・。「なんで俺ここにいるの???」って感じでしょうか?

 それでもだんだん気持ちは盛り上がってきて、マスコミのテレビカメラと大勢の人々の拍手の中、整列してゲートをくぐって入っていくときはすごく高揚した気分になっていました。その後、大量の救助資機材積み込みのため、飛行機の離陸が1時間遅れて、実際に日本を発ったのは12時前でした。

 バンコクに着くまで寝ようと思ったのですが、まだ、アドレナリンは私を許してくれませんでした。体中でアドレナリンを産生しているんじゃないかって思うくらいです。仕方がないので、映画を見ることにしました。これがまたなんと国際救助隊の話「サンダーバード」なんです。しまったと思ったのですが、見てしまいました。私のような40歳代前半のおじさんにとってサンダーバードは永遠の憧れなのです。「しかし、こんな時にサンダーバードなんて・・・。全然眠れへんやないかぁ。」

 バンコクで乗り継いでプーケットのホテルに到着したのは29日の夜11時過ぎでした。ホテルは普通のちゃんとしたホテルです。後で聞いたら連れ込みホテルらしいとのことでしたけど・・・。着いてすぐにミーティングを行い、明日からの活動準備を開始しました。私たちは医療資機材の確認です。どこに何が入っているかを確認するだけでも結構大変な作業です。その作業を終えて1時半頃には眠れました。部屋にあった缶ビールを一本飲んだのでこのときは大丈夫。でも、次の日の朝は午前3時半集合、4時出発です!! 嘘でしょう?? あと1時間半しか眠れない!

12月30日  朝は午前3時過ぎに起床しました。自分でも起きられたことがすごいと思います。3時半には集合して調達してきたトラックに資機材を積み込み、バスに乗って出発しました。トラックやバスを調達してきたJICAの人はいつ寝たのでしょうか?? 

 朝7時頃には目的地付近に着きました。タイの現地対策本部です。ここでわれわれはしばらく待たされました。団長たち幹部が作戦会議に出席するからです。いろんな国からのチームやタイの軍隊がそれぞれ独自に活動するのでは効率のよい救助活動は行えません。日本を交えてそれぞれの分担地域が決められました。

 そしていよいよ現地です。被害地域は4つのゾーンに分けられていました。われわれはゾーン1です。まず、ゾーン1の司令部に移動し、そこで詳しい状況を聞いた後、団長たち幹部と井上先生が先遣隊として出発しました。その間にわれわれは昼食です。辛?いタイ料理のお弁当でした。私はタイ料理が大好きで・・・ちょっとラッキーでしたね。隊員たちの中には日本から持ってきたアルファ米でずっと過ごさなければならないものがいて、後で分かったのですが、かなりつらかったそうです。

 昼過ぎに先遣隊が帰ってきたので報告を聞きました。近くの漁村がひどくやられていて、われわれに対するニーズがありそうです。早速、全員で出動し、活動を開始しました。漁村は想像以上に激しい被害を受けていました。海岸はどこか分からないくらい遠いのに多くの家がぐしゃぐしゃにつぶれています。港から遠く離れた町の中に数多くの漁船が転がり、電柱に引っかかったりしていました。マスクをしていても、ひどい埃と異臭が鼻をつきます。救助チームは地元の被災者に話を聞いて早速救助活動を開始しました。まだ、家の瓦礫の下で発見されていない人が大勢いるようです。私たち救助チーム医療班は救助チームの健康管理が第一の任務なので、隊員が怪我をした場合や疲労で倒れた場合などの休憩所を確保するのが最初の仕事でした。ということは、隊員たちが元気な間はわりと暇なわけです。つい、マスコミの人と話をしたりして・・・。そして、このときTBSの記者さんから「奈良女児誘拐殺人事件犯人逮捕」の報を聞きました。さすがにほっとしましたね、犯人が毎日通っていた河合町に住み、娘を持つ親としては。

 活動を開始してから1,2時間ほどしたときでしょうか? マスコミサイドからインド洋で再び地震!という知らせが入りました。現地でわれわれは如何に情報に乏しいことか?! その情報の真偽のほどが分からぬままに避難撤収せざるをえなくなったのです。

 一旦ゾーン1の司令部まで戻り、作戦を練り直しました。ピピ島へ救助チームを派遣して欲しいという要請も入っていたからです。救助チームは3小隊で編成されていたので、団長たち本隊をゾーン1に残し、1小隊をピピ島へ派遣することになりました。ここからがさすがに国のやることです。ゾーン1の司令部に、タイ近傍に援助に来ていた海上自衛隊のヘリとタイ空軍のヘリが爆音を響かせ、1小隊を迎えにやってきました。ヘリで現場へ向かうチームを少し羨ましい気持ちで見送ったのを覚えています。

 この日、私たち医療班は本隊に残り、ホテルに戻りました。そして翌日、医療班も2つに分かれることになり、私がピピ島チームに合流することになったのです。そのため、この日の夜は医療資機材を2つに分ける作業をしてから眠りました。この夜、やっと4時間というまとまった睡眠時間がえられたのでした。

12月31日  朝は午前5時15分に起床し、5時半に集合しました。本隊は6時半に出発し、われわれはお見送りです。私と看護師1名、そしてレスキュー隊員1名に外務省の書記官が加わり、ピピ島応援部隊は7時30分ホテルを出発しました。私たちは残念ながらヘリではなく、高速船でした。ちょっとがっかりです(船酔いが怖い!)。港へ向かう途中で日本人被災者のご家族と直接被災した杉本遼平君たちをピックアップし、一緒にピピ島へ向かうことになりました。ピピ島への船はプーケット島の東側、つまり津波被害のほとんどない側の港から出ます。マングローブの林を両サイドに見ながら、美しい景色の中を船は進みました。船に弱い私は、あらかじめしっかりと酔い止めを飲んでいたのですが、そうでない人は外海に出てからかなりきつかったようです。酔い止めを差し上げたのが直前になってしまった遼平君も少しかわいそうでした。みんな無口で、元気づける言葉も見つからず、みんなただ美しい海を見ていました。

 1時間ちょっとで船はピピ島に到着です。コンクリートの船着き場はかろうじてもとの状態を保っていましたが、島の様子は悲惨を極めた状態でした。昨日到着した先発隊が、ボロボロになったホテルの2階に陣取って休憩所を作ってくれていたので、私たちはまず、日本人被害者のご家族にそこで休んでいただき、仮設の手洗い場とトイレを作り始めました。本隊と分かれているので装備が少ないのが悔やまれます。皆がある程度休めた時点で、遼平君たちを伴って被災現場へ向かいました。彼のご家族の捜索に遼平君自身からの情報が必要だったからです。群がるマスコミを引き連れ、生々しい記憶の残る現場へ彼を連れて行くのは辛いことでした。しかし、遼平君は気丈に振るまい、しっかりと私たちの副団長の質問に答えてくれました。

 一旦、休憩所に日本人被害者のご家族を連れて帰っていた私のところに、遺体発見の報とドクター必要の要請があったのは2時間ほど経った頃です。遺体は遼平君のお父さんと弟さんでした。子供を守るように折り重なって二人のご遺体が見つかったと聞いています。私は直接ご遺体を見ることはしませんでした。それよりもむしろ、隊員たちの疲弊が気にかかったのです。30度を超える気温の中、分厚いヘルメットをかぶり、マスクとゴーグルをつけ、厚い防護服に身を包む隊員の過酷さは想像を絶するものがあります。私自身もタオルとマスクの中で汗がしたたり落ちるようでした。隊員たちは脱水が激しく、全く尿が出ない状態のものがほとんどです。そして、何より強烈な悪臭と不潔な環境の中で、手洗いの水が少ないことは非常に辛いものでした。私は皆に水分補給を指示し、水の少ない中でウェルパスを使って隊員の手を消毒してまわりました。こんな状況で感染症をもらってしまうわけにはいきません。1小隊だけをピピ島へ派遣した問題点がはっきりしてきました。装備の少なさは時に致命的です。しかし、今日、そうした悪条件の中で、ある程度の仕事が達成出来たことは喜ばしいことでもありました。

 この日の活動を終了し、プーケット島への帰りは全員が船でした。手持ちの酔い止めが少なく、船酔いで辛い思いをした人が大勢出てしまったのが、申し訳なかったです。「医療者たるもの、自分が倒れるわけにはいかない」という信念のもと、私自身の酔い止めは確保しておきました。ずるいようですが、ホントに私が倒れたら、誰が面倒を見てくれるのですか? だから、この派遣期間中、自分の健康には必要以上に気をつけていました。

 この日、ホテルに帰ってから、大急ぎで薬局へ行き、山ほど酔い止めを買ってきたのは言うまでもありません。




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